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豊岡から考える、地域との関係性の耕し方——岩手県立大学との連携プロジェクトを事例に

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​​遠くとも確かに地域と繋がっている人口を一人一人増やしていくことが、地域のしなやかな未来を耕していくのかもしれません。

岩手町豊岡は、戦後間もない1948年5月に、樺太から辿り着いた人々が広大な岡(丘)を切り開いた場所。開拓者たちは、この「岡」の豊かな実りを願い、この土地を「豊岡」と名付けました。70年もの月日が流れ、現在は町内一の高齢集落となりましたが、現在も岩手県立大との連携により、豊岡を未来へと継承する動きが行われています。

豊かな岡を目指した歩み

岩手町・豊岡集落の住民のほとんどは、かつての日本領・南樺太(現ロシア・サハリン州南部)の住民であり、彼らの開拓によって育まれてきた場所です。その背景には、1947年の本土引揚によって帰国した人々と、戦後の生活基盤の確保、または国全体にわたる食糧増産を目的として、積極的な開拓が推奨されていた時代があります。

そして1948年のはじめ、樺太からの引揚者ら60戸によって豊岡開拓農業協同組合が発足。樺太の中心地豊原と引揚港の真岡からそれぞれ一文字を引用し、既述の「岡の豊穣への祈り」も込めて「豊岡」という地名が名付けられました。1949年には、手作業による住居建設などの工程を経て、地元入植の5戸も加え最終的には46戸の集落が形成されました。1950年夏には豊岡小学校が完成、集落の中での夫婦も生まれはじめ、「豊かな岡」への歩みが進んでいきました。

開拓時の様子

その後は、大豆や菜種の栽培、酪農への挑戦など、さまざまな取り組みを行うものの、農業に不利な高冷地、牧草地の不足などを原因に農産業が豊岡で低迷。その結果、出稼ぎでの収入確保が主流となり、高齢化が急速に進行してしまいます。入植から70年余りが過ぎた豊岡は現在、急速な過疎化と高齢化によって、高齢化率は町内で最も高い66%となり、3人に2人が65歳以上の超高齢集落となりました。

岩手県立大学との連携を通して

豊岡集落の高齢化問題に寄り添う形で、岩手県立大学との連携により複数のプロジェクトが進行しています。例えば、岩手県立大学政策学部から始動した「見守り発信事業」では、32世帯(うち16世帯は単身世帯)の高齢者住民に電話で安否確認をしつつ、日々のささやかなコミュニケーションをとることで、町全体として高齢者を見守っていく取り組みが行われています。加えて、岩手県立大学の学生主導で、豊岡の10以上の世帯にヒアリングをして、各世帯の状況や集落単位での困りごとを調査する取り組みも行われています。

他にも、安らぎの里公園に咲く桜などの手入れを通して、岩手県立大学の学生と豊岡地域の結びつきを育むプロジェクトや、豊岡に流れる縄文時代からの貴重な水資源の環境整備活動、ソフトウェア学部と連携しながら豊岡内外のネットワークを構築するシステムの開発など、多岐に渡るアプローチで、豊岡集落に岩手県立大学の学生が関わり始めています。

豊岡神社での植樹会にて、交流を育む岩手県立大学の学生と住民

自律・分散・協調型の地域との関係

2022年現在、50名程度の人口を持つ豊岡集落ですが、2030年にはその人口もさらに減少し、高齢化や過疎化も進行してしまう試算が出ています。そうした状況のなかで、戦後から開拓をして育んできた豊岡の郷土的な魅力を残しつつ、さらに町外との連携を強化していくことで、どのような未来が描けるのでしょうか。

持続可能なまちづくりの実現には、人流や経済などの数字の指針だけでなく、豊岡に縁のある人との確かな繋がりにこそ、町を発展させる力が備わっています。

岩手町の町内のみならず、町外の盛岡などの地域から定期的に豊岡に訪れる人々との関係性を築いたり、離れた都市から遠隔で豊岡の人々とプロジェクトを実施できる環境を整備したり、豊岡は多様な「関係人口」を創出する取り組みをしています。遠くても確かに地域と繋がっている人口を一人ひとり増やしていくことが、地域の未来を耕していくのかもしれません。

岩手県立大学の学生との豊岡地区に関する意見交換会

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